利休茶復元に燃え上がった職人魂(3)

古き伝統を守り、新しい伝統をつくる職人魂
“利休の色”の復元に、その持てる知識や技術をフルに発揮してくれたのが、長年にわたり私どもと一体となって、作務衣の普及に務めてくれた武州の皆様です。
江戸の昔より、綿の産地として、また藍染、織物の名産地として有名をはせてきた土地柄だけに、私ども「伝統芸術を着る会」が持ち込んだこの難問にも、この地の職人さんたちが誇りを持って立ち向かってくれました。
試作から仕上げまでを担当していただいた武州織物協同組合の熊井信人氏は、
「最初は驚きましたが、作務衣の質的向上のためなら…とその気になりましてね。何しろお手本がありませんから、文献調べから始めましたよ。空気酸化、重ね染め、交織…とうちの技術をフルに駆使して取り組みました。染めては捨て、織っては捨てをいやになるほど繰り返しましたが、その甲斐あって、我ながら満足のいくものが仕上がりました」
と語ってくれました。
古き伝統を守り、新しい伝統をつくる。職人魂に最敬礼です。
富と権勢に屈することなく、侘びの芸術に生き抜いた男――利休
千利休。大永2年(1552)、堺に生まれる。17歳で武野紹鴎について茶を学ぶ。長じて織田信長、豊臣秀吉に仕え、茶頭となり茶の湯の第一人者と称されるようになる。特に秀吉は事あるごとに大茶会を開き、利休をしてすべてをつかさどらせたため、利休の名は天下に広まり、多くの大名たちをも弟子とする勢いを得る。
利休は当時流行したきらびやかな書院茶の湯に対して、「侘び(閑寂な風趣)」の境地を重んじた草庵風の侘び茶の湯を提唱。新しい茶道の理論を確立し、現在の表千家、裏千家という茶道流派の原型を作る。茶の湯を通して、茶器・花器の道具類や建築、料理、装身具、色…など多面にわたりその好みが影響を与え、やがては《利休好み》とよばれる侘びの文化が生まれるまでになった。
「日本の様式美を再興したルネッサンス人」として、利休の評価が再上昇。

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