藍・LOVE・STORY(1)

藍染の里・武州に聞く、江戸の藍染事情
その1・藍染のはじまり

稲荷山古墳にほど近い埼玉県行田市持田に、武州本藍染めの技術と伝統を守り続ける(株)熊井の本社がある。ここ行田市は、隣の羽生市と並んで、江戸時代から明治末期まで隆盛を誇った武州本藍染めの本拠地ともいうべき土地柄だ。
(株)熊井の熊井信人社長は、婦人服・子供の縫製業を営んできたが、ひょんなことから藍染を手がけることになる。今では、藍なしでは夜も日も明けない毎日である。
これは、藍にこだわり、藍を愛す幸せな一人の男の物語だ。
熊井さん・談
実は、藍染というのは、いつ・誰が・どこで発見したのかよく分かっていないのです。今から、三千年前という説があるにはあるのですが…。
誰かがたまたま、植物藍を土の中に入れていた。そこに雨が降って、雨水がたまった。そしたら、これが発行した。で、その液の中に布を入れてみたら、キレイな藍色に染まった。どうも、これが藍染の起こりらしいんですね。
で、場所的には、インドネシアとかインドあたりが、植物藍のルーツらしい。これがタイやカンボジアに伝わり、さらに中国南部の広東や福建に入った。そして、台湾を経由して奄美大島に渡来し、九州から日本に上陸して、江戸時代の始めに普及したといわれています。
一方、江戸時代に、綿の栽培が始まっているんですね。綿は、当初は高級品だった。それが普及するにつれて、庶民のものになった訳です。
で、この植物藍と綿がドッキングして、日本の藍染になった、綿が一番、藍になじみがいいというか、染まりいいんですね。

野袴とは何ぞや?袴のまめ知識

前回登場した「憲法黒 藍墨野袴」に、「野袴とは何ぞや?」と思われた方も多いのではないでしょうか。そこで今回は、袴についての豆知識をお届けいたします。
袴とは?
腰から足までをおおう、ゆったりした衣です。 語源は「穿裳(はきも)」で、古墳時代にはすでにその祖形が見られます。下に、袴の一部をご紹介いたしましょう。


  • 長袴…肩衣(かたぎぬ)と揃いになった、室町から江戸時代にかけての武家の礼服です。
  • 小袴…指貫を短くして裾を絞った袴です。
  • 半袴…こちらも、室町時代から江戸時代に かけての武家の礼服です。
  • 馬乗袴…江戸時代の武士が乗馬に用いた、股が分かれている袴です。男袴とも呼ばれます。
  • 行燈袴…筒型になっている、股のない袴です。女性は全てこの袴を用いるので、 女袴とも呼ばれます。
  • 野袴…足元が絞ってあり、動きやすい袴です。裾が細く、袴のひだを残すことで、袴の格調が漂っています。武士の「火事装束」などにも用いられました。水戸黄門の袴もおそらく野袴でしょう。

その他にも、表袴、大口袴、小口袴、指貫袴、平袴、襞高袴などと様々な形態がありますが、袴のタイプは、股の分かれていない筒状の「行燈袴」と、ズボンのように股が分かれている「馬乗り袴」の二つに大きく分けられます。
動きにくいイメージのある袴ですが、TPOにより様々な種類を使い分けることによって、あらゆる場面に対応することができます。
作務衣より“古装”としての印象度が強い野袴は、まさに着用するだけで存在感が際立つ和服です。

藍の潔さ、黒の剛毅。「吉岡流憲法染」(4)

作務衣だけではもったいない。野袴も同時に…!
織師、石塚久雄が工場に閉じこもって三週間。いよいよ、藍の新しい彩りが姿を現しました。
「黒を見せては駄目。しかし、全体に黒の味わいが行き渡らなければ駄目。いかに黒を潜ませるかに苦労しましたよ。」
石塚さんはこれだけしか言いません。
完成した色に、全員、しばし無言。正藍染ならではの絣もきちんと生きています。しかし、単なる藍でもありません。それは、まさに「藍墨」という以外にありません。更に渋く、より端麗。さらに一途なまでに剛毅な藍の彩り。
媒染のスペシャリストが参加してくれた事もあって、新しい藍の旅立ちは想像以上の出来栄え。作務衣だけではもったいないとの声もあり、機会があれば…と考えてみた「野袴(のばかま)」にも、この藍墨を採り入れてご紹介することとなりました。
「吉岡流憲法染」
憲法(けんぽう)とは、室町末期、将軍家の兵法師範をつとめた吉岡家の世襲的な名称。兵法と共に小太刀の妙術をもって剣法道場も開き、俗に吉岡流と呼ばれる。
宮本武蔵をして“京に天下の兵法者あり”と言わしめた程の栄華を誇ったが、小説や映画では宮本武蔵の敵役として扱われている。実際は武蔵との対決も“勝負を分たず”と言われている。
兵法、剣法に長けると同時に風流にも通じた名門武家であったとされる。
後に、大阪冬の陣に参戦。豊臣方に組したが、その敗戦を恥じて兵法を捨て、西洞院四条に遷居し、門人李三官から伝えられた黒茶染の法をもって染物業に転じる。
憲法染、吉岡染などと呼ばれ名声を博すが、特に独特の黒染めは、明暦・万治の頃に大流行した。梅の樹皮染・藍染と鉄媒染がこの“憲法黒”の特徴で、いかにも武人好みの色合いとして、姿を消した現在でも評価は高く、復活を望む声も多い。

藍の潔さ、黒の剛毅。「吉岡流憲法染」(3)

梅染めの茶と藍が奥深い黒を生み出す。
正藍染については問題なし。問題は憲法黒の再現です。
元々の憲法黒は、梅の樹皮だけで染めていたと言われますが、江戸時代に入ってからは、まず藍で下染めしてから梅で染めるようになったとのこと。今回は、あくまで藍の開発ですから、後者を採ります。
名前は聞いたことがあっても実際に染めるのは初めての秋元さん。クチは北さん、ウデは秋さんの二人三脚で試し染めが続きます。
下の写真のように、
1、正藍染による下染め
2、梅の枝の樹皮から採った染液による染め
3、鉄媒染
という工程を幾度も繰り返し、納得のいく“黒”に染め上げていくのです。
ポイントは、やはり3の鉄媒染。クギや鉄片などで作った媒染液が黒の味わいを決めるため、北さんも力が入ります。1~3の工程の繰り返しを調整しながら約一ヶ月。さすが鉄媒染の第一人者である博士こと北一男さん。みごとな吉岡の黒を再現してくれました。
「それにしてもいい黒だね。単純な黒じゃないもんね。梅染めの茶と藍が交じって実に奥深い黒だよ」と北さん自身が感動する程。さあ、この憲法黒をヨコ糸に使い、正藍染のタテ糸と交わらした時、どんな新しい藍の彩りが出現するのでしょうか。
1、まず正藍染にて下染めを施す。この糸を…

2、梅の樹皮染液で染め、藍に茶色をしのばせてゆく。

3、鉄媒染液に漬け黒に仕上げる。1~3を何回も繰り返す。

◇「藍の潔さ、黒の剛毅。「吉岡流憲法染」(4)」に続く…

藍の潔さ、黒の剛毅。「吉岡流憲法染」(2)

「吉岡の黒をやるのかい?そりゃいいね」と、頼もしい助っ人がひと肌ぬいでくれました。
「新作は藍色でいきたい…」と切り出した時の二人の表情は見ものでした。二年続けて「卯月」「三し織」という大ヒットを連発した染の秋元、織の石塚という武州きっての職人にとって、“何を今さら…”と怪訝な顔になるのは無理からぬところ。いや、実はかくかくじかじか…新しい藍の可能性を求めたいとの意向を伝えると、やっと納得。それも、黒を採り入れた藍染をお願いしたい――と話が進む頃には身を乗り出してくる程。そして、その黒は…とこちらが言い出す前に「吉岡だな…」とズバリ。さすがに実力派のお二人。分かってくれています。
憲法黒のポイントは鉄媒煎にあり!
こうして、武州正藍染と吉岡流憲法染の結婚話は意を挟む者もなく決定したのですが、ベテラン藍染師の秋元一二さんだけが浮かぬ顔です。
「いやね、吉岡の黒やるんなら媒染がポイントになるわな…ワシには荷が重いよ」とのこと。そこへ石塚さんから間の良い一言。
「博士がいる!博士に助(す)けてもらえばいいじゃないか、ウン」おう、博士か…秋元さんの顔もパッとほころびました。
職人仲間に“博士”と呼ばれる人とは、北一男さん。プロフィールをご覧頂けば、呼び名の由来もよく分かります。
「いやあ、吉岡の黒をやると聞いて、ワクワクしましたよ。こりゃ、俺の出番だなってね。喜んで協力させてもらいますよ」と大ノリの北さん。鉄媒染の第一人者がスタッフに加わり、いよいよ体制は整いました。
北一男さん
昭和9年生まれ。群馬大学工学部入学、地球科学を専攻。卒業後、民間企業の研究部にて酸化鉄(弁柄)、磁性材料(フェライト)の研究に没頭。植物染め、藍染に興味を持ち、武州のコンサルタントとして関与。鉄媒染の第一人者として今回“憲法黒”の再現にスタッフとして参加。新しく更なる藍づくりへの道を開いた最大の功労者である。
◇「藍の潔さ、黒の剛毅。「吉岡流憲法染」(3)」に続く…

藍の潔さ、黒の剛毅。「吉岡流憲法染」(1)

藍を極めたからこそ出来る、更なる奥深さ――新しき藍への第一歩は、吉岡流憲法染と共に。
はるかな昔より、それぞれの時代の人々に愛されながら“藍”は悠久の旅を続けてきました。そして、代を重ねながら研鑽を怠らなかった染師たちの努力により、藍は、その濃淡は言うに及ばず、さまざまな柄や模様を生み出す技法に至るまで、今や一つの極まりを見せたといっても過言ではないでしょう。
その証としては、これまで私ども<伝統芸術を着る会>が、復元、開発を重ねてきた数多くの藍染作務衣が、藍染の何たるかをお分かり頂ける会員の皆様に快く受け入れて頂いていることでよく分かります。
藍の端麗、四方に輝きを放ち、憲法黒の剛毅、一途に潜む…これ、男子本懐の彩りにて、藍墨と称す。
しかし、これで藍の旅が唐天竺(からてんじく)まで達したとは思いたくありません。藍には、それを極めたところから始まる、更なる奥深さや可能性が秘められていると信じるためです。
藍の更なる求道の旅立ち。
その第一歩として、当会はここにひとつの彩りをご呈示したいと思います。単独の染めとしては頂を見た藍染の次なるステップは、他の染め技法との交わりにより生まれる――との判断から誕生した一彩。
相手として選んだのは、天下の兵法者の手により完成した「吉岡流憲法染」。特に、その黒染めの彩りは剛毅にして端正。もののふの心を現した銘彩です。
この吉岡の黒を再現、武州正藍染と合わせました。まさに墨交の交わりから生じた「藍墨」の出来栄えやいかに。じっくりとご照覧下さい。
◇「藍の潔さ、黒の剛毅。「吉岡流憲法染」(2)」に続く…

五十年ぶりに復活した伝統の技!「竜巻で染める – 竜巻絞り染」3

同じ柄はふたつと無い、これが絞り染の楽しさ。
一反12メートルの綿絽の布地を二人がかりでいっぱいに広げます。それをぐるぐるとロープ状に巻いていきます。その様子は、天に駆け上る竜巻のよう。竜巻染めという技法の呼び名もこの光景からきたものです。
絞り上げられ太い縄のようになった綿絽を藍ガメに入れて染めるわけですが、絞られた部分に染めムラができます。
「そう、意図的にムラを作るんだ。濃く染まる部分と淡く染まる部分が模様になる。まあ、同じように絞るからおおよそ同じような柄になるが、どれをとっても、ひとつと同じものはないんだ。だから、染め上がって布地をほどく時は一反ごとにワクワクするよね」
と秋元さん。こんな素人じみたことを言いながら、どれくらい、どこをどう絞ればどんな染め模様ができるかは全てが頭に入っているのです。長年の経験とカン、これが職人の技というもの。スタッフに喚声をあげさせた正藍竜巻絞り染の出来栄えは、まぎれもなくプロの仕事。みごとな伝統染技の復活といえましょう。
念願だった絽の作務衣の開発に大きな花を添えた正藍竜巻絞り染の技法――手ごたえはズシリと重いものがあります。
1、精錬された綿絽の布地一反(12メートル)をしわを寄せながら縄状にぐるぐる巻いていく。この形状から<竜巻絞り染>といわれる。
2、縄状に巻かれた布地を束ね、何回も藍ガメにつけて染める。巻くことにより染めムラができ、それが独特の模様となる。
3、藍ガメから引き上げた時はきれいな緑色。これが空気に触れることにより藍色に変化してゆく。この空気酸化こそ藍染の命である。
4、この繰り返しが藍の濃淡を決める。淡い水浅葱(みずあさぎ)色で4~5回。濃い藍で10~15回ほど染めを重ねていく。
5、仕上げ染めは、全体をムラなく染めるため先端に針を付けた竹ひごに布をほどいて張り染めていく。この工程が、竜巻絞り染の色合いを工夫する。

五十年ぶりに復活した伝統の技!「竜巻で染める – 竜巻絞り染」 2

広げた綿絽の反物に鮮やかに広がる藍模様!
秋元一二さん。例の発言の主です。武州藍ひとすじに33年、現在63歳のベテランが、この竜巻絞り染の復活に挑むことになりました。
「話には聞いてたが、私だってやったことがないからな。ま、これまでの経験を生かしてやってみるよ」
と見事に肩の力が抜けています。まわりの人の話だと、
「秋さんなら大丈夫さ。考えるより先にぶつかっていくから。そして、何とかモノにしてしまうから…」
とのこと。何とも頼もしい職人さんのようです。
とはいうものの苦労はあったようです。なにせ半世紀ぶりに伝統技法の復活をやろうというのですから。
「午後三時をまわったら仕事はしないよ。藍の色の判別ができなくなるから…ね」
と徹底した職人気質を見せる秋元さんが、夜遅くまで藍ガメと共に在った――と証言する人もいます。そして或る日…。
「出来たよ。こんなもんかな」
と相変わらずの口調で持参した竜巻絞り染の反物。期待と不安が入り混じった視線に見守られながら広げた反物には、鮮やかな藍模様が展がっていました。
藍染職人 秋元一二
「ムラが出るように絞って染める――何でもないことのようだが最初に考えた人は偉いもんだ。やってて、そう実感したね」

五十年ぶりに復活した伝統の技!「竜巻で染める – 竜巻絞り染」 1

「よし、絽で行こう!」
新しい作務衣開発のための企画会議は、全員一致で決定を見ました。絽の作務衣づくりというこのテーマこそ、スタッフのすべてが「いつの日か…」と胸に秘めていたものだったのです。
全員が色めき立ち、準備は着々と進みました。色はやはり藍、それも正藍染がいい。ならば、素材は絹より綿だ。藍の色合いを考えたら五本絽が理想的――という具合に、画期的な絽の作務衣が具体的に形となっていきました。
職人のつぶやきが伝統の技法復活への第一歩に。
いよいよ試作です。この企画を持ち込んだ先は、藍染の里として数々の傑作作務衣を生んでいる武州でした。絽の作務衣と聞いて、それは面白いと快諾。職人魂に火が付いたようです。
しかし…。出来上がった試作品を前に、スタッフ一同浮かぬ顔。何か今ひとつ足りない感じなのです。いつも新しく質の高い作務衣づくりを求める限り、つい欲が深くなってしまったのでしょうか。
そのとき、同席していた職人の口から思わぬ一言がこぼれました。
「タツマキでやってみるか…」
一同エッ?という顔。
説明によると、タツマキとは“竜巻絞り染”という最近では滅多に見られなくなった伝統的な藍染技法ということ。布地を絞って染めるため、色に計算できない濃淡が出て模様になるというのです。
とにかく試し染めをしてみようということになりました。

武州正藍染作務衣

作務衣の本流。藍染の里、武州が誇る自信の一着――
古き良き作務衣を現代に甦らせたい――という目的からスタートした当会が、すべての原点として完成させたのが、この「武州正藍染作務衣」です。
その後に発表されたあらゆる作務衣も、全てこの一着を源としているというわけです。その意味で、作務衣の本流と申せましょう。
入門に最適な一着でありながら、極めた人にも愛される不朽の名作。
武州と言えば藍染の里として有名。
この地が自信を持って世に送り出しただけに、その完成度の高さは定評のあるところ。
“蓼藍”の葉を自然発酵させた染液で糸の段階から十数回も繰り返して染め上げられた特選正藍染め、つむぎ風織り木綿100%の肌ざわりの良さ、藍の深さは、最高級とのお声を頂いています。
当会設立当初からの会員の中には、この“正藍染”一本やりという方も多いようです。
「一年おきに購入してすでに五着持ってますが、平等に着て洗っているとそのすべてに時間の経過による色合い、風合いの異なりが出てきてイイ感じです。洗うほどに変化していく正藍染ならではの味わい、これはたまりません。鮒(フナ)にはじまり鮒に戻ると言いますが、やっぱりこれは作務衣の原点だと思いますね…」
とのお便りを頂くと、作り手冥利に尽きます。
洗いを重ねるごとに渋さと愛着が増してくるのも、いかにも作務衣本来の姿と言えましょう。まさに、不滅の一着です。