桐生の織物――歴史につちかわれた織物の里を訪ねて(2)

工夫と先取の気性から生まれた「桐生織」
桐生は江戸時代から織物都市として発展を見せ、その影響で、堺、京都、近江、名古屋、江戸などの商人、関東、甲信越、能登の職人などが多数行き交い、華やかな桐生文化が形成されてゆきました。
人々の気質は、竹を割ったようなさっぱりとした気性の人が多く、お祭りが大好きでとても陽気。それが先取の精神とあいまって、工夫、改良、発明が盛んとなり、これが桐生の織物の発展の要因のひとつにもなっています。
その創意工夫から生まれた『桐生織』には「お召織」「緯綿織」「経綿織」「風通織」「浮経織」「経絣紋織」「もどり織」という、代表的な7つの技法があり、昭和52年10月、通商産業大臣から伝統的工芸品に認定されています。本誌22ページの右上に掲載されたマーク(伝統証紙)がそのあかし。
認定を受ける条件はなかなか厳しく、

  • 主として日常生活に使われるものであること
  • 主要工程が手造りであること
  • 江戸時代以前からの技術や技法を受け継いでいること
  • 江戸時代以前から使われてきた原材料を使用すること
  • 生産地が桐生市を中心に近接市町村にまたがり、織物の「産地」を形成していること

とされ、長い歴史につちかわれた、真の伝統工芸でなければ受けることができない貴重な織であることが分かります。
絶え間なき技術の研鑽により磨かれ続けた「桐生織」。その存在を前にしたとき、装いとしてまとってみたくなるのは、桐生織りが秘めたドラマの成せる技なのでしょうか。

桐生の織物――歴史につちかわれた織物の里を訪ねて(1)

伝統と進取の気性が時を紡ぐ、桐生。
ところは関東平野の北部。国定忠治で有名な名峰赤城山を仰ぎ、渡良瀬川と桐生川の清流にはさまれた、風光明媚な織物の里、桐生を今回は訪ねてみました。
はるか昔のロマンスから生まれた桐生の織物
桐生と云えば織物産業が盛んで、世に名を馳せる桐生織物が有名ですが、その起源ははっきりとはしていません。一説では、遠く47代淳仁天皇の時代(一二〇〇年前)に遡ると云われ、こんな逸話が伝えられています。
その時代、桐生在郷の人である山田某が、天皇家に仕える白滝姫を恋慕い、これを歌に呼んだことが偶然天皇の目に留まり、やがて白滝姫は山田某に嫁ぐことを許されました。二人は手を取り合って桐生に帰り、やがて養蚕や機織りにあかるかった白滝姫の手ほどきにより、村人たちがこれを修得したのが桐生織物の始まりと云われています。
元中年間(一三八四~一三九二)には産物として他国へ移出するようになり、これが仁多山絹(にたやまきぬ)と呼ばれたものであったとされ、それ以前には新田義貞が生品の森に兵を挙げ、この絹で旗印をつくって鎌倉幕府を滅ぼしたという非常に運命的なドラマが起こっています。
慶長五年(一六〇〇)、徳川家康が小山にいた軍を急に関ヶ原に返す時、急便を送って旗絹を求めたところ、わずか一日ほどで二千四百疋を集めたとも云われ、江戸時代末期には東洋で最初のマニファクチュア(工場制手工場)の生産形態を確立。
その後ますます、織物の里としての桐生の名は高まり、現在に至っていくのです。

豊かな自然の賜物と職人の技との結晶。作務衣創りに藍染の技あり。(3)

清流と職人の意気込みが彩りを磨いてゆく
“かせ糸”の漬け込み回数による微妙な色合いの調整、そして河などの豊かな清流を利用して行われる、みそぎにも似た入念な洗いなど・・・。
藍染めを行う過程は、もちろんすべてが職人による丹念で手間暇のかかる手仕事。
彼らの鍛え抜かれた感覚と技術が、藍という自然が生んだ原石を至宝の彩りへと高めてゆくのです。
そんな生きている色だからこそ、藍は、見る人や着る人を問わず、しんしんと心に滲みてゆきます。
時を越えて、数え切れないほど大勢の人々の間で、変わることのない普遍の彩りとして愛され続け、これからも私たちの暮らしと共に歩んでゆくことでしょう。

豊かな自然の賜物と職人の技との結晶。作務衣創りに藍染の技あり。(2)

自然が育んだ神秘の彩、藍の変身物語。
藍染の原料となる蓼藍はタデ科の一年草。降り注ぐ陽光、大地を濡らす慈雨、畑を渡り行く爽やかな風・・・大自然の中で育つ藍は、まさに天然の宝物。
現在のような染の技法は発祥は定かではありませんが、正倉院や法隆寺の御物の中に見事な藍染の布が残っており、3~4世紀に藍草(蓼藍)が渡来した際に、染の技法も一緒に伝わったのではないかと云われています。
染の過程に見せる藍の姿は神秘そのものです。蓼藍の葉を発酵させ固めた藍玉を、カメの中でさらに自然発酵させると茶緑の樹液が生まれます。
この液に綿を紡いで作った“かせ糸”を漬け込み引き上げると、空気に触れた途端、緑色の糸が鮮やかな藍色にドラマチックに変身するのです。その劇的な瞬間は“空気酸化”と呼ばれ、藍染めの魅力をさらに神秘的なものにしています。
藍の濃淡いを決めるのは漬け込み回数で10~15回。その色に応じて、かめのぞき、藍白(あいじろ)、浅葱(あさぎ)、藍、紺(こん)と呼ばれるのです。

豊かな自然の賜物と職人の技との結晶。作務衣創りに藍染の技あり。(1)

いにしえから愛され続ける素晴らしき染め手法
中国では紀元前1世紀の頃、すでに「礼記」という書物の中に藍という言葉が登場するほど歴史は古く、現在する最古の藍染を施した布はエジプトのピラミッドから発見された4~5千年前のものと云われています。
日本でも千年以上の歴史を持ち、かの「源氏物語絵巻」にも登場しており、「青はこれを藍に取りて、藍よりも青し」という、中国の筍子の流れを受けて生まれた“出藍の誉れ”ということをわざひとつとってみても、藍に対する人々の深い畏敬の念が感じられます。
世界に名を馳せる「ジャパンブルー」の彩り
また、藍染の布は虫が嫌う、殺菌の効能があるとして、江戸時代には広く庶民に広まるようになりました。藍は人の心までも染め上げてしまう、“時代を超えた彩”と云えましょう。
ちなみにヨーロッパでは、明治8年に政府の招きで来日した英国の科学者アトキンソンが「ジャパンブルー」と命名して以来この名で呼ばれており、アメリカでは安藤広重の東海道五十三次」に描かれた鮮やかな空や水の藍色から「広重ブルー」と名付けられ、現在では日本の代表的な色として世界に認められるまでとなっています。

綿、麻、絹の三絲織(さんしおり)(1)

季節風の変り目、風が凪ぐときに降る細い糸の雨。音もなく降るこの暖かい雨は、草木の芽を伸ばし、花の蕾をふくらませてゆく――春の新作、そのイメージは<はるさめ>。
綿、麻、絹の糸で表情豊かに織られ、春らしい彩りに染められた作務衣の面を、正藍染の“雨がすり”がひそやかに降り注ぐ。匠の技が成し遂げた稀に見る高感度な作務衣の登場――こんな雨なら、濡れて行きたい。
三つの素材の個性が絶妙の味わいを…
まずタテ糸。綿と絹の糸を組み合わせ、そこに綿と麻をより合わせた交撚糸をミックス。ここまでの糸はすべて生成の糸です。
これに、先染めの藍染綿糸(雨がすり)を、織師石塚久雄の感覚で配した上で整経します。ヨコ糸はすべて麻――この複雑な糸構成で織り上げたのが写真です。
とにかく、太さも強さもまるで違う三つの素材による糸で織るのですから大変。途中で切れたり糸と糸が混ざりあったり…どの織職人も、この三絲織には手を出さないのも無理からぬこと。
それだけに、高度な技術と手間ひまかけた労力により織り上がった反物は絶妙。
綿のしなやかさに麻の風合、絹の光沢が混じりあい、その中を正藍染め雨がすりが走り抜けるという前代未聞の織物が誕生しました。

藍の初染式(3)

織りで出した“表情”に、春の色をのせる――春の新作は奥が深い!
さっそく、このお二人に春の新作について話をうかがってみることにします。面倒だなぁ…といいながら、お二人とも目が笑っています。
「昨年春の『卯月』は織りで色を創ったんだが、今回は織りで“表情”を創ろうと思ったんです」と石塚さん。この発送から新作づくりの苦労が始まったといいます。そして、思案の末に取り組んだのが三絲織…
「そう、やっと綿と麻と絹を全部使ってやろうと決意したんだよ」
話を聞いた秋元さんがぶっ飛んだといいます。
「絹と麻の組み合わせだってみんな敬遠するのに綿まで混ぜようってんだから、そりゃ驚くわな。まあ、史上初といってもいい試みだろうな。効率も悪いし、どんなことになるのか心配したよ、ホントに!」
素材に負けぬ職人芸、その上、雨まで降らす…
それでもやってのけるのが武州織物「石織」三代目石塚久雄のど根性。
「絶対に面白いものができると思った。それからは夢中。いろんな糸の組み合わせで織りまくったね。その結果、ヨコ糸は麻だけ。タテ糸に三素材を組み合わせることにしたんです」
と平然。綿糸と絹糸の組み合わせに、さらに味を出すための交撚糸(麻と綿をより合わせた糸)が加わります。さらに、さらに…。
「アート感覚で、先染めの藍染糸をまぶしていくんだ。ちょうど布地に雨が降っているようにね…」
と石塚さんの口調が熱くなってきます。ところで色はどうなるんですか?
「織りで表情を出すから、後染めがいい。織り上がった布地に色を付けるんだ。これがまた実にいい…」
秋元さんも、織り上がった布地を見て納得したという。染め職人が認めるだけの出来栄えだったといいます。
彩りは、植物染料に染めの堅牢度を高めるための科学染料による万葉百彩染め。茜(あかね)、刈安(かりやす)、藍玉などを使った萌えるような春の色三彩。
やっぱり春はこのコンビ、高感度作務衣の誕生です。
春の色をした三絲織の作務衣に藍染の雨が降る…いいですね。
「春雨じゃ濡れていこう…。ちょっと古いかな。でもね、こんな作務衣、後にも先にもまず手に入らないよ。それくらい珍しく画期的。お宅でなきゃこの作務衣は売れないな」
と秋元さんからのおほめの言葉。やっぱりこの名コンビ、やることが違います。
何だかワクワクしてしまう――今年の春の新作です。

藍の初染式(2)

春の新作作務衣は再び、あの名コンビに!
この初染式の場には、いつもなら飄々とした感じの染め師、秋元一二さんも神妙な顔で直立不動。また、創織作家の石塚久雄さんも駆けつけていました。大ヒットとなった万葉百彩の第一号「卯月」をものにした名コンビです。
この秋元さんと石塚さん、初染式を終えた足で近くの神社に出かけました。誘われてお供します。この神社は、愛染堂と言われ愛染明王を祀る神社で、愛染と藍染の名前の共通から武州の藍染職人たちが、何かにつけおまいりにくる神社となっているようです。
秋元さんと石塚さんのお二人、抱えてきた作務衣を神前に奉納。熱心にお祈りをしています。
「春の新作だよ。まず一作目は必ず愛染さんに奉納するんだ。こんな作品を作らせていただきましてありがとうございます…ってさ、天の恵みに感謝するんだよ。自然の植物や空気、水、太陽など、どれひとつ欠けても作務衣は作れないんだからさ。感謝する心が大切なんだわ」
と語る秋元さん。かたわらで石塚さんもウンウンと頷いています。
もう、お分かりのことでしょう。今年の新作は、再びこの“秋さん”と“石さん”の名コンビに託します。
「すっかり春男になっちゃったね。昨年に勝るとも劣らぬものを、しかも何か新しい味付けで…というのだから困っちゃうよな」
と石塚さん。そんなことを言いながら、すでに昨年夏から試作に取り掛かっているお二人、ホントは超マジメ人間なのです。
「石塚先生はだろ…?ワシャ知らんよ。だって名前は“春”じゃなく“秋”だもん…」と秋元さん。テレ隠しもここまでくれば職人芸です。

藍の初染式(1)

天からの恵みに感謝。今年もまた、心のかよう作務衣づくりに努めます――と頭を垂れ、春の新作を神前に奉納する職人の想いをのせ…風はいま、北から南へ。
一月七日、藍染めの里武州では恒例の<初染式>がとり行われました。
この一年、職人たちが皆健康でより良い作品が作れますように…と神様にお願いする儀式です。
形式的に思えますが、古き佳き伝統芸術を守り育ててゆく職人たちにとっては古くから慣行となっているこの儀式は大切なもの。神主さんを迎えた仕事場には緊張した雰囲気が満ちています。
決意も新たに、今年もまた心を込めて質の高い作品を作っていこう――と、職人たちの目が燃えています。
私ども『伝統芸術を着る会』のスタッフも同じ決意です。本年度も宜しくお願い申し上げます。

自然の賜物、藍染。(5)

日本中を駆け巡った藍染を求める旅の結果…
そのため東奔西走、足と時間をかけて、一徹に昔ながらの仕事を守っている藍染の里を必死に探し求めました。
その結果、幸運にも、谷川連峰の峻烈な清水を利根川にいただく埼玉県北部の「武州」。
四国三郎の異名を持つ吉野川を擁する徳島の「阿波」。
そして“遠州”の通り名で知られる織りと染めの重鎮、静岡の「西ケ崎」に出会うことができたのです。
歴史と伝統、豊かな自然と清流に囲まれた環境、優れた腕を持つ頑固な職人たち…それはまさに私どもが求めた理想の染めの里でした。
それからの幾度もの交渉、作務衣を論じ、話し合い、時には夜を徹して飲み明かし、伝統の装いと染めについて語り合った熱い日々は、今でもスタッフの胸の中にふつふつと蘇ります。
本物の作務衣を創りたいという心意気は、本物の藍染をいつまでも残したいという職人魂と響きあい、まさに以心伝心。その和が、藍染による当会の数々の銘作作務衣を生み出すことに至っていくのです。